感じずに通り過ぎたいこと

 職場の人と業務上の会話の自然な流れで同性カップルの権利保障の話になった。内縁の男女でも手続き次第で法律上の夫婦に準じた内容の契約を締結できるんだよ、同性カップルだとどうなんですかね。んー、今はないけど今後はあり得るかもね、そういえば渋谷区の条例とかあったし、民間のサービスでも、、みたいな感じで始まって色々話した。

 ある程度気心の知れた人とか付き合いが長い人とセクシュアルマイノリティについて話すことと、そんなにお互いのことを知らない人とか、セクシュアルマイノリティのことなんて話題にのぼりにくいところで知り合った人とその話題について話すこととでは、全く違う感覚を覚えるんだという当たり前のことに改めて気づく。話しながら、なんだか得体の知れない緊張感とか恥ずかしさとか怖さとかが自分の中に湧いてくるのを感じるのだ。たぶん、「なんでそんなに詳しいのww君、もしかしてwww」とか「ホモとかちょっと信じられないよね、ほんとにいるのかな」みたいなリアクションが返ってきたらしんどいよなあ、というような心配を無意識のうちにしていて、知らず知らずのうちに心が身構えてしまっているんだと思う。時間がたって振り返ってみてから、あの自分の内心の揺らぎはそういうことなんだろうなとわかる。(ちなみに、そのとき話した相手の方は極めてまっとうに話して下さって上記の心配は杞憂であった)

 僕は当事者ではないけど、セクシュアルマイノリティについて自分が詳しい(あくまで普通の人に比べれば)ということや、そのテーマに関わる活動の経験があるということを開示するのは、ある種のカミングアウトのような重さを伴ってしまう。嫌なリアクションが返ってこないかな、とか、今後僕に対する見方が悪い方に変わらないかな、ということが頭をよぎる。

 きっと当事者の場合は、僕が感じたものよりも何十倍も鋭利な緊張感をいろんなシチュエーションで感じることがあるのだろうと思う。

負ける、諦める

 もう数か月も前のことだけど書いておこう。

 人生においてそれなりに価値を置いて取り組んできたことを一つやめてしまった。続けたとして、これ以上面白くなることはないだろうという確信を得てしまったからだ。自分の人生にはずっとついて回るだろう、自分にとってそれを捨てることは簡単なことではないだろうと思っていたのに、限界が見えた瞬間、もう続けてちゃいけないんじゃないかと急に思えた。今までやってきたことが無駄だとは全く思わないけど、今後も続けたら無駄になる気がした。

 続ける未来が面白そうだと思えないということがさみしくもあったが、清々しくもあった。限界が見えるというのは清々しい。力を尽くす、負ける、限界が見える。限界を見るためには力を尽くさなくちゃいけない、ちゃんと負けなきゃいけない。ちゃんと負けることができてよかった。清々しい。

「面白い」とは

 おととい、演劇を観てきた。

 ここ10~15年の演劇業界を引っ張ってきたカンパニーだという評価をあちこちで見聞きしてたのでかなり期待して観に行ったのだが、僕はあまり面白いと感じることはできなかった。「技術的に上手い」っぽい、とか「構造や手法が洗練されてる」っぽい、とかは感じたけど、それらを通じて表現されていることには面白さを感じることができなかった。

 劇でも小説でも映画でも、自分が面白いと思うものには何があるのかと考えると、たぶん、未知のものを突き付けられているという感覚だと思う。おととい観た劇にも僕にとっての未知のものは描かれていたかもしれないけど、少なくとも僕が感じ取れた範囲の中には無かった。

 ただ、未知のものがあればなんでも面白いと思うかというとそうでもない。自分の世界に無かったものが目の前にあったとしても、「こりゃー俺の人生とは関係ねえな」というくらいに遠く感じてしまったら面白くない。自分が普段から考えてること、感じてることと地続きの領域にあるものとして未知のものが提示された時に面白いと感じるんだと思う。ベン図で言うと、自分が普段から考え感じている領域Aと、作品世界B、が部分的に重なり合っている感じ。共通部分(つまり自分にとって既知のもの)を経由して、領域Aの外まで作品の力で連れて行ってもらう。そんなイメージ。

 そうだ、そうやっていろんな作品の力を借りて自分の世界と感性を拡張していこう。

演劇の人たちに教えてもらったこと

演劇の人たちに教えてもらったこと

・遠回りを恐れてはいけないこと。回り道で見た景色も関連付けて栄養にしてしまう器があれば、それは遠回りではないこと。

・逆に言えば、遠回りを恐れないでいられるだけの、自分への信頼とチームメイトへの信頼を作ることが大事だということ。

・他人の知性を低く見積もるのは恥ずべきことだということ。

・他人を自分の目に見えている部分だけで平面的に見ないこと。

・ぱっと見で見えている姿の奥にあるもの、それを理解できることがほとんどないとしても、その存在に畏れを抱かなきゃいけないということ。

・その奥行きを愛さなければ何も始まらないということ。

 

 「8 -エイト-」から始まり、FESTIVAL/TOKYOの「透明な隣人」まで長かった。一昨日おわった。僕は「透明な隣人」の方はプロセスには全く関われなかったけど、本番は当日スタッフとして立ち合わせてもらえて嬉しかった。

 7月公演の時は、稽古期間中ずっとこれを聴いてた。歌詞が良いんだ、ほんとに。で、「透明な隣人」が終わって、またこの曲のことを思い出した。

 「 未完成なお互いが与え与えられ 顔と顔とを向い合せていかなくては駄目だ 」

 マジ至言


あかり from HERE ~NO MUSIC, NO LIFE.~ / クラムボン feat ...

あかり from HERE

つつがなく日々は 繰り返されて行く
抗えぬ波に 飲み込まれて行く

ようこそ
時と場所の クロスロード
一人でに おもしろを知って 笑う
子供 ダイヤモンド

この世とはプラットフォーム
行き先はtomorrow
beyond 踊ろう
good vibesを灯そう

クラムボン 日本語
懐と心 欲望
ドラムをミックスしてひねり出す一言

21世紀 ユーラシア極東で
出会った 証拠 理由
景色を残そう

簡単なことがやがて絡まって
空回って
気付いた時には既に凝り固まって

引くにひけずに街中が争いだらけ
ラッパーの言葉よ 働け 内側へ

加害者 被害者
繰り返しなたらい回しさ
確かに虚しいが 虚しいのが世界さ

完璧な人間なんて どこにも一人もいない
皆 善と悪半分ずつで一人さ

情けは金じゃ買えない 味気ない
ダブルクリックだけで施されるわけない

未完成なお互いが与え与えられ
顔と顔とを向かい合わせていかなくては駄目だ

言いかけた言葉も 口に出さなけりゃ
全てかけがえない ただ忘れていくだけだ

伝わるか伝わらないか なんかは関係ない
伝えようとすることを 今も俺は諦めない

「どっかで会ったね」
「あれ、どこだっけ」
「どこだ」
「でも会ってるよね」
「うん」
「じゃ、またね」

どっかで会ったね またねと分かれる
今夜も枯葉が舞い 名残惜しさをも待たない

過ぎてしまったことはもう仕方がない
水をやり続けなくちゃ 花は再びは咲かない

敗北を重ね 敗北感をかかえ
ずっと止まねぇ雨だってのに まったく傘がねぇ

群れから離れ 辿り着いた上り坂で
ずぶ濡れで笑って 一人で傷を乾かせ

どうせみんなすぐにいなくなる 命の輝きは色あせて暗くなる

銀河から銀河 連なる束の間 goin’up yonder
未練が捨てられている津々浦々

いいかい? 誰にも順番は変えれない
これは決められた瞬間さ 簡単だ これ以上は恨むな

もう出発しよう 喜びを歌うんだ
メロディが 良くなる方向へ 導くはずさ

嘲笑う声 路地裏 顔の見えない 広場にて
言葉に宿る 光放って
手を差し伸べる 星になろう

行け 行け もっと速く もっと遠くへ
行け 行け もっと高く もっと強く
行け

思いがけない 理不尽な世界
勝ちか負けか 誰にも避けられない

俺は忘れない この教えだけは
自分の相手は自分自身 たった一人だけだ

夜が明けた パーティーはまだ終わってない
no surrender 発展や発見は果てない

知らないことが残ってるのは 幸せだ
それを忘れちまったら 生きた屍さ

明日も明後日も何年経っても
あの日簡単に見えたはずの夢は陽炎

ただ働いて 疲れ眠って起きるだけの
日々の隙間に ふざけろ 目一杯遊べよ

飲めや 歌えの 宴の ダンスホール
ドラムロール can’t stop,stand up yo

弾ける音の粒子はプランクトン 衝突するインパク
tonight’s act here comes クラムボン action go!

取り乱すことなく かみしめて行けばいい
たとえようもなく 愛して行けばいい
行き止まりの先へ 息切れしてもなお
どん詰まりの先へ 眩暈がしてもなお

あかり from HERE

行け 行け もっと速く もっと遠くへ
行け 行け もっと高く もっと強く

行け 行け もっと速く もっと遠くへ
行け 行け もっと高く もっと強く
行け

理由は書きかえられる

 一つ前の記事を消した。

 最近、いろんなところで「研究計画書、ブログで見たけどさー」と言われ、意外といろんな人に読まれてることを知って、なんだか恥ずかしくなって消してしまった 笑

 どうせ誰も読んでないだろうと思ってたけど、今度からはこころして書こう。

 

 最近は院試に向けてひたすら教科書とにらめっこしている。臨床心理学はやっぱり面白いと思うし、現場に立ちたいと思う。でも、その面白さの感覚は臨床心理士になろうと決めた当初とはなんだか違ってきている気がする。最初に現実的に臨床心理士になろうと考え始めたときのことは出来事としては憶えてるし、キーになった学術的な概念とかも憶えてる。けど、それに興奮した当時の生の手触りみたいなのものは、今思い返して蘇ってくるものと、本当にその当時に感じてたものとではたぶんなんか違う。

 なろうと決めてから今までに、いろんな経験をしてきた。就活したり、卒論書いたり、サラリーマンしてみたり、身近な人が死んだり死にかけたり。

 就職した時は、臨床心理学なんかどうでもよくなってサラリーマンを続けていこうと思えたら、それはそれでいいと思ってた。けど、幸か不幸か、そうはならなかった。むしろいろんな経験を経て、世界がこんな感じなら、人間というのがこんな感じなら、なおさら臨床心理学をやりたいと思うようになった。いろんな経験がやりたい気持ちの中身を書き足し、書きかえてきた。なんで臨床心理士になりたいの?って今聞かれたら、「大学3年の時に~」とかいって、なりたいと思い始めた当時のことを僕はしゃべり出すんだろうけど、微妙なエピソードの選択とか言葉の選択とかはたぶん変わってきていて、当時のリアリティを描こうとする語りはその書きかえられた現在形の感覚に方向づけられてしまう。過去は過去の一時点でその形を固定されて保存されてるんじゃなくて、その後の時間たちを吸い込みながら色を変え形を変え、そして現在ぼくの中に存在している。

 過去の現在形。2014年の2010年。なんじゃそりゃ。

 何が書きたくて書き始めたか分かんなくなっちゃった。寝よ。

メモ

◆可能な結婚形態に同性婚が加わること。この変化のベクトルの拡張と深化の先には、制度、枠組み(例えば、国家というシステム)の無意味化 or 解体があるか?そうだとして、それに対して、良い、悪い、という価値判断はあり得るか?

→ また、それを『気流の鳴る音』真木悠介の議論と接続できるか

 

◆公的な対話の回路(例えば司法の場、立法の場、政策決定の場、仕事、職場)⇔私的な感情の回路

そのギャップ、複層性、奥行き