感じずに通り過ぎたいこと

 職場の人と業務上の会話の自然な流れで同性カップルの権利保障の話になった。内縁の男女でも手続き次第で法律上の夫婦に準じた内容の契約を締結できるんだよ、同性カップルだとどうなんですかね。んー、今はないけど今後はあり得るかもね、そういえば渋谷区の条例とかあったし、民間のサービスでも、、みたいな感じで始まって色々話した。

 ある程度気心の知れた人とか付き合いが長い人とセクシュアルマイノリティについて話すことと、そんなにお互いのことを知らない人とか、セクシュアルマイノリティのことなんて話題にのぼりにくいところで知り合った人とその話題について話すこととでは、全く違う感覚を覚えるんだという当たり前のことに改めて気づく。話しながら、なんだか得体の知れない緊張感とか恥ずかしさとか怖さとかが自分の中に湧いてくるのを感じるのだ。たぶん、「なんでそんなに詳しいのww君、もしかしてwww」とか「ホモとかちょっと信じられないよね、ほんとにいるのかな」みたいなリアクションが返ってきたらしんどいよなあ、というような心配を無意識のうちにしていて、知らず知らずのうちに心が身構えてしまっているんだと思う。時間がたって振り返ってみてから、あの自分の内心の揺らぎはそういうことなんだろうなとわかる。(ちなみに、そのとき話した相手の方は極めてまっとうに話して下さって上記の心配は杞憂であった)

 僕は当事者ではないけど、セクシュアルマイノリティについて自分が詳しい(あくまで普通の人に比べれば)ということや、そのテーマに関わる活動の経験があるということを開示するのは、ある種のカミングアウトのような重さを伴ってしまう。嫌なリアクションが返ってこないかな、とか、今後僕に対する見方が悪い方に変わらないかな、ということが頭をよぎる。

 きっと当事者の場合は、僕が感じたものよりも何十倍も鋭利な緊張感をいろんなシチュエーションで感じることがあるのだろうと思う。