週末

 

 あわただしく充実した週末だった。

  20日(金)はMさんとHとWeb読書会のオフ会的な飲み会。Mさんは最近、ュディス・バトラーを扱った卒論を提出したということで、その話とあとは音楽の話とかいろいろ。Mさんの案内で2軒はしごしたけど、両方とも店の雰囲気も店員さんもいい感じだった。また行きたい。

 バトラーが行為遂行論を援用しつつジェンダーを論じたことに触れ、ジェンダーというのは行為ごとに再生産されるものであり、being ではなく doing していくものなのだという話を聞かせてもらった。これはメンタルヘルス分野にも援用できそうな考え方である気がする。周囲の状況によってなんとなく選ばされてる行為によって規定されていく自己、そしてそれと乖離を感じる自己との間に生じる違和感。それが不適応の説明要因になり得るケースもあるのではないだろうか。“自己コントロール感”という概念が既にあり、その不全が不適応を生むという説明がなされることもあるので、うまく接続しつつ有意義な何かを作れるかも just idea 。

 Web読書会はフォーマットの設定も毎回毎回の投稿も、自分の魂を込めて取り組んだ企画だった。Mさんと会うのは1年半ぶりだったけどすごく楽しく飲むことができて、自分の本気の企画を通じて知り合った方と素敵な友達になれた気がしたのは嬉しかった。

 飲み過ぎて記憶を失くして迷惑をかけたのは反省。

 

 22日(日)は、前述の飲み会で急遽参加することが決まり、YDPのコキコhttp://ydpjapan.net/cotokico/cotokico7/ にスタッフとして参加。YDPに顔を出すのは3年ぶり。多種多様な発表の最後に、主催者のHがイベントの狙いの説明を込めつつ「日本語を進化させる」というテーマで発表したのが印象に残った。独断と偏見で要約する。国家単位の言語としての日本語は自然発生的にできたものではなく、明治期に政策として整備されたものであり、その努力によって日本人の共通言語としての日本語ができた。しかし現状では、科学者が科学の意義を社会に上手く説明できる術を持っていなかったり、ITの発達によりネトウヨのような似た趣向を持った者どうしの内向きなコミュニケーションが増大したりと、日本語話者の中でも立場が異なる人間どうしをつなぐ働きは未成熟である。コトキコでは、異なる活動をしてきた人たちが同じ場で発表し合う場を作ることで、多様な言葉のぶつかり合いを生み、立場が異なる人どうしをつなぐ言葉が生まれる契機を作りたい。要約終了。ここでは書かないけど、志望している専攻の文脈で似たようなことを考えていたので、いろいろ思うところがあった。考えが練れたら、どこかで書く。

 

 23日(祝)は、視覚障害者向けの生活用品を制作・販売している会社に勤めているRの誘いで、アメディアフェア http://www.amedia.co.jp/event/amediafair/ にガイドボランティアとして参加。来場する視覚障害者のお客様を駅から会場まで誘導したり、会場内で案内したりというお仕事。僕は視覚障害者の方のお手伝いをしたのは初めてだったので、もう何回もやってらっしゃるというガイドボランティアの方にコツを聞いたところ、「段差が○○cmくらい」とか「階段が○○段あります」とか、具体的な情報をなるべく言葉にすることが大切とのこと。なるほど。目が見える者どうしで「段差があるよ」と声をかける時は、相手が下を向いて自分の目でその段差を視認してくれることを無意識に前提にしている。前提が違うと言葉の運用も変わってくる。まさに前述の「日本語を進化させる」というテーマにも関わる話だ。ただ、やってみて感じたのは、視覚障害者の方がこちらからの声掛けに全面的に頼って地面の形状を認識しているわけではもちろんなく、杖を使って足場を“触覚”(←たぶん、視覚障害者業界でこんな言葉づかいはしない)しているので、段差の高さも自分なりに掴んでいらっしゃる方が多いということ。むろん、人によって千差万別かつケースバイケースなので細心の注意は必要。

 びっくりしたのは、帰るお客様を会場から駅までお送りした時のこと。駅入り口の大きな階段の前で「ここまで来ればもう大丈夫ですから。ありがとうございます。」と言われ、階段を1人でさくさく昇り始めたときだ。僕は一番の難関かなと思っていたのだけれど、後で聞いた話だと、大きな階段は段差が規則的なので視覚障害者にとってはそんなに苦にならないらしい。僕には一見平坦に見える道が視覚障害者の方にとっては細かい段差や傾斜などの障害を含んでいて、逆に僕には難しそうに見える階段は苦にならないというのは、僕にとってのまさに“盲点”であった。

  夜はRらと4人で飲んだ。僕が、視覚障害者といってもカテゴリー内の多様性がいろいろあるよねというようなことを言ったところ、Rが「それもそうだけど、そもそも、そのカテゴリーはその人を説明するいろんな要素の1つでしかない」(あいまいな記憶による意訳)というような話をしてくれた。なにか分かりやすい特徴で他人をidentify しがちだけど、その人が抱えてきた生の文脈は多様であり、その中で視覚障害が持つ位置と重みと意味が自明なはずはない。自分が視覚障害者であることをほとんど意識しない人もいるだろう。自分に対してはごちゃごちゃといろんなことを思いながら複雑な自己認識を持っているのだから、他人に対してもその奥行きと複層性を最大限の想像力で想定して向き合いたいところ。