なるべく明晰に、なるべく開かれた言葉で

 10年以上前に、なんかの雑誌のインタビューで Dragon Ash の kj が(当時はまだ降谷建志だったかも)「本当にいい歌詞を書けたら、韻を踏む必要も無いかもしれない。」みたいなことを言っていたのをふと思い出した。読んだのはたぶん中学生の時なので記憶が曖昧だ。本当は全く違う意味合いのことを言ってたかもしれない。

  なんで突然このことを思い出したか分からないけど、たぶん、ここ最近、言葉とか文章というものについて考えているからだと思う。文章でも読ませるに値する明晰さと深さがあるなら、下手にレトリカルな表現を含める必要はない。むしろ、韻を踏んだり、レトリカルな表現を交えることで、受け手を表面的な快楽の部分に留まらせてしまう可能性すらある。そうすると、意味内容自体を深く受け止めてもらうことは難しくなってしまうかもしれない。むろん、表現の巧さに着目してもらうことを通じて、意味内容をするっと読み手に入り込ませることだってあるだろうけど。

 それに加えて、レトリカルな表現は多くの場合、その表現がレトリックとして成り立っている前提を共有していない人への排他性を持っている。立場の違いや、普段持っている問題関心の違いを越えて、多様な読み手に訴えかける文章にするためには、特定の立場の思考の蓄積が含み込まれているような表現はなるべく避けた方がいい。

 Web読書会を再開しましたが、個人的なテーマはなるべく明晰でなるべくニュートラルな言葉を使って文章を書くことです。(僕個人のテーマです。参加者の皆様は思い思い自由に書いていただければ。)課題テクストを読んだ人に宛てて書くので、誰にでも伝わるようなとまでは言わないけれど、少なくとも課題テクストを読んだ人には僕の思考過程が明晰に伝わるような文章を書きたい。

 あれ、なんか当たり前すぎる目標になってしまった。