人と話したこと

 あわただしい日々の中で、いろんなことを感じて、いろんなことを忘れていく。忘れたくないことを書いておく。

  同性婚をテーマにした朗読劇のスタッフをしており、その仕事で女性の同性愛者の方と話をする機会があった。その中で選択的夫婦別姓についてどう思うかが話に出た、というより僕から聞いた。その方曰く「私自身は導入されてもいいんじゃないかという気持ちはある。」「けど、日本で世間に受け入れられる土壌ができてるかというと、全然まだまだ。」「そういう中で合法化されても、別姓を選んだ夫婦が周囲に傷つけられたり色眼鏡で見られてしまうことがあるだろうと思うと、はっきり導入賛成とも言えない。」僕のバイアスを通した要約だけど、だいたいそんなことをおっしゃっていた。僕はこれが別姓を名乗る権利を制限してもよい理由にはならないと思うので、全面的に賛同できるわけではない。でも、すごく納得はした。

 そして、同時にそういうことを切実に考えたことのない自分を恥じた。選択的夫婦別姓反対派の理由として、そういう意見があることはもちろん知っている。けど、夫婦別姓が導入されてもいいと半ばは思っている人から、そういう意見を聞いたのは初めてだった。ジェンダーにおいても、セクシュアリティにおいても、抑圧される側、マイノリティ側に立ったことのない僕は、同性婚夫婦別姓もさっさと認められてしまえばいいと無邪気に思う。でも、その当たり前かもしれない権利を主張して享受しようとすることに付きまとう苦労については何も知らないに等しい。その方はレズビアンとして生きてきて、フォビアな人々からのまなざしにも敏感にならざるを得なかったし、そういう人々の気持ちも分かる気がするとおっしゃっていた。ご自身のそういった経験からの類推で、現行の多数派とは違う家族(夫婦)観を持つ人へと敵意が向けられることがあり得ると考えて上述のような発言をされたのだと思う。

 僕が同性婚夫婦別姓も認められればいいと思ってることは正しいと思う。でも、正しさに伴う痛みが想像できるなら無邪気でいてはいけない。正しければ、そこに痛みが生まれないなんてことはない。