ようやく

 院試の準備が全然進まなくて苦しい一か月だった。

 研究計画書を練り上げるために論文を読みまくってたけど、ようやく道筋が見えてきた気がする。自分の根っこにある問題関心を明確にすることと、それを先行研究から連なる文脈にフィットさせる形を見つけるのは簡単なことじゃない。でも、だからこそ、安易な答を求めず、苦しんで楽しまなくては。卒論の時だってそうだった。

 先が見えないときこそ、一つ一つ丁寧に。

人と話したこと

 あわただしい日々の中で、いろんなことを感じて、いろんなことを忘れていく。忘れたくないことを書いておく。

  同性婚をテーマにした朗読劇のスタッフをしており、その仕事で女性の同性愛者の方と話をする機会があった。その中で選択的夫婦別姓についてどう思うかが話に出た、というより僕から聞いた。その方曰く「私自身は導入されてもいいんじゃないかという気持ちはある。」「けど、日本で世間に受け入れられる土壌ができてるかというと、全然まだまだ。」「そういう中で合法化されても、別姓を選んだ夫婦が周囲に傷つけられたり色眼鏡で見られてしまうことがあるだろうと思うと、はっきり導入賛成とも言えない。」僕のバイアスを通した要約だけど、だいたいそんなことをおっしゃっていた。僕はこれが別姓を名乗る権利を制限してもよい理由にはならないと思うので、全面的に賛同できるわけではない。でも、すごく納得はした。

 そして、同時にそういうことを切実に考えたことのない自分を恥じた。選択的夫婦別姓反対派の理由として、そういう意見があることはもちろん知っている。けど、夫婦別姓が導入されてもいいと半ばは思っている人から、そういう意見を聞いたのは初めてだった。ジェンダーにおいても、セクシュアリティにおいても、抑圧される側、マイノリティ側に立ったことのない僕は、同性婚夫婦別姓もさっさと認められてしまえばいいと無邪気に思う。でも、その当たり前かもしれない権利を主張して享受しようとすることに付きまとう苦労については何も知らないに等しい。その方はレズビアンとして生きてきて、フォビアな人々からのまなざしにも敏感にならざるを得なかったし、そういう人々の気持ちも分かる気がするとおっしゃっていた。ご自身のそういった経験からの類推で、現行の多数派とは違う家族(夫婦)観を持つ人へと敵意が向けられることがあり得ると考えて上述のような発言をされたのだと思う。

 僕が同性婚夫婦別姓も認められればいいと思ってることは正しいと思う。でも、正しさに伴う痛みが想像できるなら無邪気でいてはいけない。正しければ、そこに痛みが生まれないなんてことはない。

メモ

まじで純然たるメモ

・【synodos】自由と平等の攻防 ―― アメリカでの同性婚合法化の波を理解するために 北丸雄二 / ジャーナリスト

 http://synodos.jp/society/4848

・【synodos】誰もが愛する人と安心して人生を送られる社会を目指して――体験談から法制度、ロビー活動まで パートナー法ネット活動報告会2013

 http://synodos.jp/society/6356

・【synodos】日本におけるLGBTの法整備の動き 明智カイト、遠藤まめた

 http://synodos.jp/society/4980

・【blogos】同性婚法案、ハワイ州議会上下両院を通過

 http://blogos.com/article/73368/

・【synodos】LGBTと「社会的養護」――家庭を必要としている子どもたちのために  藤めぐみ / RFC(Rainbow Foster Care)代表

 http://synodos.jp/society/6198

・【blogos】特別配偶者法の議論を

 http://blogos.com/article/32752/

・【団体】パートナー法ネット(特別配偶者法全国ネットワーク)

 http://partnershiplawjapan.org/

なるべく明晰に、なるべく開かれた言葉で

 10年以上前に、なんかの雑誌のインタビューで Dragon Ash の kj が(当時はまだ降谷建志だったかも)「本当にいい歌詞を書けたら、韻を踏む必要も無いかもしれない。」みたいなことを言っていたのをふと思い出した。読んだのはたぶん中学生の時なので記憶が曖昧だ。本当は全く違う意味合いのことを言ってたかもしれない。

  なんで突然このことを思い出したか分からないけど、たぶん、ここ最近、言葉とか文章というものについて考えているからだと思う。文章でも読ませるに値する明晰さと深さがあるなら、下手にレトリカルな表現を含める必要はない。むしろ、韻を踏んだり、レトリカルな表現を交えることで、受け手を表面的な快楽の部分に留まらせてしまう可能性すらある。そうすると、意味内容自体を深く受け止めてもらうことは難しくなってしまうかもしれない。むろん、表現の巧さに着目してもらうことを通じて、意味内容をするっと読み手に入り込ませることだってあるだろうけど。

 それに加えて、レトリカルな表現は多くの場合、その表現がレトリックとして成り立っている前提を共有していない人への排他性を持っている。立場の違いや、普段持っている問題関心の違いを越えて、多様な読み手に訴えかける文章にするためには、特定の立場の思考の蓄積が含み込まれているような表現はなるべく避けた方がいい。

 Web読書会を再開しましたが、個人的なテーマはなるべく明晰でなるべくニュートラルな言葉を使って文章を書くことです。(僕個人のテーマです。参加者の皆様は思い思い自由に書いていただければ。)課題テクストを読んだ人に宛てて書くので、誰にでも伝わるようなとまでは言わないけれど、少なくとも課題テクストを読んだ人には僕の思考過程が明晰に伝わるような文章を書きたい。

 あれ、なんか当たり前すぎる目標になってしまった。

備忘録

派遣バイト

 使う側 ⇔ 使われる側

  ・指示系統のマクロの設定

    ・事前ミーティング

    ・「〇〇の時は、△△に聞いて」

  ・全体像の共有

    ・事前ミーティング

    ・個別の指示、会話の中に全体像についての説明を含ませる。

  ・ミクロのコミュニケーション

    ・都度都度、見てあげる、声をかける

    ・個別の指示の中でのハイコンテクスト⇔ローコンテクストの配慮

      例)お盆Aにたまった洗い済の食器を拭いて、お盆Bに移していて

        拭き済のお皿がお盆いっぱいになったら、

        その都度動かしているという状況

        社員から「それ終わったら、こっち来て」という指示

        お盆Aが空になった時? or お盆Bがいっぱいにたまった時?

 

 以上、発達障害の人の就労状況改善の示唆になるか??

週末

 

 あわただしく充実した週末だった。

  20日(金)はMさんとHとWeb読書会のオフ会的な飲み会。Mさんは最近、ュディス・バトラーを扱った卒論を提出したということで、その話とあとは音楽の話とかいろいろ。Mさんの案内で2軒はしごしたけど、両方とも店の雰囲気も店員さんもいい感じだった。また行きたい。

 バトラーが行為遂行論を援用しつつジェンダーを論じたことに触れ、ジェンダーというのは行為ごとに再生産されるものであり、being ではなく doing していくものなのだという話を聞かせてもらった。これはメンタルヘルス分野にも援用できそうな考え方である気がする。周囲の状況によってなんとなく選ばされてる行為によって規定されていく自己、そしてそれと乖離を感じる自己との間に生じる違和感。それが不適応の説明要因になり得るケースもあるのではないだろうか。“自己コントロール感”という概念が既にあり、その不全が不適応を生むという説明がなされることもあるので、うまく接続しつつ有意義な何かを作れるかも just idea 。

 Web読書会はフォーマットの設定も毎回毎回の投稿も、自分の魂を込めて取り組んだ企画だった。Mさんと会うのは1年半ぶりだったけどすごく楽しく飲むことができて、自分の本気の企画を通じて知り合った方と素敵な友達になれた気がしたのは嬉しかった。

 飲み過ぎて記憶を失くして迷惑をかけたのは反省。

 

 22日(日)は、前述の飲み会で急遽参加することが決まり、YDPのコキコhttp://ydpjapan.net/cotokico/cotokico7/ にスタッフとして参加。YDPに顔を出すのは3年ぶり。多種多様な発表の最後に、主催者のHがイベントの狙いの説明を込めつつ「日本語を進化させる」というテーマで発表したのが印象に残った。独断と偏見で要約する。国家単位の言語としての日本語は自然発生的にできたものではなく、明治期に政策として整備されたものであり、その努力によって日本人の共通言語としての日本語ができた。しかし現状では、科学者が科学の意義を社会に上手く説明できる術を持っていなかったり、ITの発達によりネトウヨのような似た趣向を持った者どうしの内向きなコミュニケーションが増大したりと、日本語話者の中でも立場が異なる人間どうしをつなぐ働きは未成熟である。コトキコでは、異なる活動をしてきた人たちが同じ場で発表し合う場を作ることで、多様な言葉のぶつかり合いを生み、立場が異なる人どうしをつなぐ言葉が生まれる契機を作りたい。要約終了。ここでは書かないけど、志望している専攻の文脈で似たようなことを考えていたので、いろいろ思うところがあった。考えが練れたら、どこかで書く。

 

 23日(祝)は、視覚障害者向けの生活用品を制作・販売している会社に勤めているRの誘いで、アメディアフェア http://www.amedia.co.jp/event/amediafair/ にガイドボランティアとして参加。来場する視覚障害者のお客様を駅から会場まで誘導したり、会場内で案内したりというお仕事。僕は視覚障害者の方のお手伝いをしたのは初めてだったので、もう何回もやってらっしゃるというガイドボランティアの方にコツを聞いたところ、「段差が○○cmくらい」とか「階段が○○段あります」とか、具体的な情報をなるべく言葉にすることが大切とのこと。なるほど。目が見える者どうしで「段差があるよ」と声をかける時は、相手が下を向いて自分の目でその段差を視認してくれることを無意識に前提にしている。前提が違うと言葉の運用も変わってくる。まさに前述の「日本語を進化させる」というテーマにも関わる話だ。ただ、やってみて感じたのは、視覚障害者の方がこちらからの声掛けに全面的に頼って地面の形状を認識しているわけではもちろんなく、杖を使って足場を“触覚”(←たぶん、視覚障害者業界でこんな言葉づかいはしない)しているので、段差の高さも自分なりに掴んでいらっしゃる方が多いということ。むろん、人によって千差万別かつケースバイケースなので細心の注意は必要。

 びっくりしたのは、帰るお客様を会場から駅までお送りした時のこと。駅入り口の大きな階段の前で「ここまで来ればもう大丈夫ですから。ありがとうございます。」と言われ、階段を1人でさくさく昇り始めたときだ。僕は一番の難関かなと思っていたのだけれど、後で聞いた話だと、大きな階段は段差が規則的なので視覚障害者にとってはそんなに苦にならないらしい。僕には一見平坦に見える道が視覚障害者の方にとっては細かい段差や傾斜などの障害を含んでいて、逆に僕には難しそうに見える階段は苦にならないというのは、僕にとってのまさに“盲点”であった。

  夜はRらと4人で飲んだ。僕が、視覚障害者といってもカテゴリー内の多様性がいろいろあるよねというようなことを言ったところ、Rが「それもそうだけど、そもそも、そのカテゴリーはその人を説明するいろんな要素の1つでしかない」(あいまいな記憶による意訳)というような話をしてくれた。なにか分かりやすい特徴で他人をidentify しがちだけど、その人が抱えてきた生の文脈は多様であり、その中で視覚障害が持つ位置と重みと意味が自明なはずはない。自分が視覚障害者であることをほとんど意識しない人もいるだろう。自分に対してはごちゃごちゃといろんなことを思いながら複雑な自己認識を持っているのだから、他人に対してもその奥行きと複層性を最大限の想像力で想定して向き合いたいところ。